椎の木湖とともに   大山 修一
 

第七話 私が社長になったわけ

釣り堀の現場仕事に没頭するようになって、初めの一年は悪戦苦闘の連続だった。へら鮒釣りのことも、釣り堀のことも、釣り人のことも自分では解っているつもりでいた。しかし、それは非常に総体的な理解であって、上っ面を舐めているにすぎなかった。

へら釣りの難しさはよく言われることであるが、私にも少々の経験があるのだから充分に想像できることだと思えた。しかし、椎の木湖でのへら釣りとなると、それは別物であった。この環境で、放流しているへら達が、釣り人にどのような釣りを強いているのか? そしてそれが、釣り人に満足を与えているか?これを模索していくと、釣り堀の水質や水の増減、へらの型、大きさ、動き密度など実に様々な要因が関わってくる事に気がつく。その一つ一つを毎日の仕事の中で確実に察知し、有効な段階で、着実に手を施していかなければならないわけだった。

振り返れば当然のことでも、その頃は解らないことが多かった。

気がつくのが遅れて、外からの油の流入をくい止めることができなかったことがあった。あの時は消防署の方々にお世話になって、幸いあまり広がることもなく自浄作用で消失したので良かったが、一つ間違えば池の命取りとなるところだった。

魚に虫がついて動きが悪くなり、死ぬ量が激増したこともあった。その時は、水族館の方々などが有効な薬やその散布方法をアドバイスしてくださった。それからは、お客様よりの情報を頼りに、大きく広がらない内に消毒でくいとめている。

また、魚の焼却臭について周辺の住宅から苦情があり、その分野の環境センターと焼却炉メーカーと検討に検討を重ねて、無臭の環境基準に合致した設備を整えたこともあった。これは、当時としてはちょっと痛い出費であったが、現在となっては、本当にやっておいて良かったと思っている。

農家の方々を始め、周辺の住民の皆さんには色々とご迷惑をおかけすることも多い。時々、お宅に伺って話し合いの機会を持つようにと心がけている。

毎年10月から12月にかけて新べらの放流を行うが、大型ということに気をとられ過ぎて、1kg以上のへらを多く入れたために冬場に全く釣れなくなってしまったなどということもあった。あの時は、”椎の木湖は釣れない”という噂が広まって、入場者がかなり減少した。判断のミスが経営を悪化することに繋がった良い例であると思っている。

それから、私を最も悩ませたのは、やはり自動計量器であった。コンピューターの操作については、前話でもお話したように苦戦したが、なんとか習熟することができた。しかし、一番の問題は、クラブハウスのホストコンピューターへ情報を送るために各桟橋に張り巡らされた配線回路であった。各釣り座の計量器はいくつかの回路のグループに分かれている。一つの回路に何十台かが繋がっているわけで、その内の一台でも損傷を受けると、その回路の全部の器械がデータを失ってしまう。初めの頃は、よく不通になって、データが消えてしまうことがあった。一度などは、多数の例会で配線回路に不具合が生じ、例会が成り立たなくなってしまったため、事情をご説明して全員の入場料をお返ししたこともあった。この経験を教訓として、それ以後は、配線や各釣座の計量器の点検は常々行っている。小さな釣り針一つでも故障の原因になり得るので、決して、気も手も抜けない。

後は、突然発生する雷が怖い。雷がまともに落ちたら、計量器の復帰はかなり難しいものとなってしまう。大気が不安定になって雷鳴が轟いてくると、放送後ただちに電源を切らせていただくのはこのためである。その後のメーカーとの検討により、現在では無停電スイッチを設けて、データの保存がより安全に行われるようになった。こちらの要請に答える形で多くの問題の処理をこなして、メーカーにもご尽力をいただいたおかげで、最近はあまり問題が起らなくなってきている。

このように、色々な問題と向き合って対処していく内に、私は段々と椎の木湖の全てを理解していくようになった。同時に、お客様へより快適で楽しい釣り堀の提供をという気持ちを強くしていった。私の中に、椎の木湖への無垢な愛着が芽生えはじめていた。


しかし、世の中は順調にばかりは進ませてくれない。私がまだまだ自分の未熟さ・経験不足を痛感していたにもかかわらず、また神様は私から大きな後ろ盾を奪った。桑原社長が、本業に全力を注ぐため、東日本レイクの社長職から退きたいと要望されたのだ。

”もう、おまえがやれ!”と仰る。

私の不安は大きかった。

けれども。。。。  それを拒否するだけの言い訳が見つけられなかった。

(メルマガ椎の木湖2002年9月号原文掲載)

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