椎の木湖とともに   大山 修一
 

第六話 私の軸足が動いたとき

計量器(オートト AUTOTO)の導入と2500円への入場料値上げは、椎の木湖からの客離れを招いた。その最も大きな導火線となったのは、例会予約のキャンセル続出であった。昔からへら鮒釣りに親しんだ釣り人には、釣った魚を器械で計ると言うことに大きな疑念があった。はたしてフラシで計るように正確に計量してくれるのか、と。また、設定のしかたなど大変面倒くさく、繁雑にも映ったのだった。

その上の500円の値上げである。各例会で、椎の木湖拒否の声が多く上がったことは、当然の成り行きであったのかもしれない。例会が減れば評判も悪くなる。それにつられて一般客の数も確実に減少していった。さらに、実施した時期も悪かったのだろう、最も魚の釣れなくなる冬場であったため、ますます来場者の足は遠のいた。このままでは、投資に見合う結果どころか、会社の存亡の危機に直面してしまう。私は、またしても岐路に立たされた気持ちになった。

私には、良い解決策が浮かばなかった。”以前の2000円の入場料に戻せばいいんだ”と言う意見も多くあった。しかし、私はそうは思わなかった。お客様のためになると信じて行った莫大な投資である。その価値に見合う価格というものがあって然るべきではないのか!?と思いたかった。

”現在すべきことは?”と考えた時、一つだけ私にも確かなことがあった。”この計量器の仕組みを私自身が知り尽くすこと。”これより、私は、このことに全力を注いだ。それは、それまで、コンピューターなどというものには無知・無縁であった者には、まさしく、凄まじい格闘の世界であった。自分がエキスパートにならなければ、他人に自信を持って、その利便性をアピールすることなどできない。うわべの知識では、他人を納得させることなどできはしない。だから、知り尽くす事が大切だ、と自分に言い聞かせた。

この頃、私には、追い討ちをかけるように、さらに悪い出来事が起っていた。オープン当時から釣り堀受付業務と管理を任せていた従業員と、その次に私が頼りにしていた従業員の二人を同時に失わざるを得ない事態が発生していたのだ。一人は事務所二階で居住し、住み込んでくれていたし、何よりも、二人ともへら鮒釣りに精通しているということが、私にはとても助けとなっていた。私の力不足であったのか − 二人を去らせることとなってしまった。この時ほど、人を雇うということ − 人事の難しさを思い知らされたことはなかった。

この時点では、私の釣り堀業務への苦手感のようなものは、まだ払拭されていなかった。しかし、二人が去った後で、もう逃げる道は残されていなかった。

ある日を境に、私の生活は一変した。朝遅く起きて夜遅く寝るから、早く起きて早く寝る生活へ、180度の転換であった。釣り堀の受付に座るようになって、始めは、お客様の怪訝な表情に凹まされる気分になることがあった。しかし、日を重ねるうちに会話や交流が生まれ、私は、段々と、私の中の”釣り人”を再認識するようになっていった。釣果を上げた時の喜び、大型を釣った時の興奮、一人一人の釣り人の釣りに対する熱心さ、情熱に触れるにつけて、私は、いつしか、新たな心の広がりを感じるようになっていた。

きっとこの時に違いない。私の軸足がゴルフ場から釣り堀へとシフトし始めたのは−−−−−−−−。

現在では、私は、釣り堀業務を中心に置いている。ゴルフ練習場の方は、ゴルフ好きの若い人たちに任せている。

(メルマガ椎の木湖2002年8月号原文掲載)

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