椎の木湖とともに   大山 修一
 

第四話 椎の木湖オープン

平成三年十二月二十一日土曜日、椎の木湖オープンの日がとうとうやってきた。前夜は、喜びと不安が交錯した興奮に包まれ、睡眠不足はもちろん避けられなかった。そんな夜明け前、眠い目を右手でこすりながら不安げに空を見上げると、冬空一面に星がまばゆく輝いている。いっぱいに輝くきら星達の一つ一つが、椎の木湖を、そして私たちを支えてくれている人達の一人一人と重なり、感謝の気持ちがこみ上げてくる。そう、私は一人ではない。多くの方々の後押しに支えられながら、椎の木湖の舵を握っていくのだ。

夜が明けると、オープンを祝福してくれるかのような真っ青な快晴。主だったメディアへの広告と主要釣会への挨拶状が効を奏してか、期待を上回る沢山の方々のご入場をいただいた。全四百十六席がほぼ満席となり、ようやくたどり着いたオープン当日の喜びが、より一層とふくらんだ。

そんな喜びにぼーっと浸る間もなく、オープン初日とあり、私を含め従業員一同、朝からてんやわんやの大混乱状態となっていた。細かい打ち合わせを何度も繰り返したはずだが、朝の受付業務はもたつき、やはり、予定していたように整然と、と言うわけにはいかない。

昼食時の食堂は直営でやっていたこともあり、なおさらの混乱だった。牛丼やカレーライスなど、メニューは限られ、簡単なレトルト料理が多かったはず。にもかかわらず、予想を上回るお客様のご利用で、近隣から集めたパート部隊ではとても追いつかない程の大盛況ぶりだ。きっと、お待たせしてしまったお客様も多かったことと思う。申し訳なかった。

この日、もう一つ気がかりだったのは、果たして新べらが口を使って釣れてくれるかどうか、ということだった。新べらは十一月頃から放流され始め、オープン当日には四十五トンほどにも達していた(五十トンの予定のため、残りは翌年一月に補充)。せっかく、新しい釣り場に夢を抱くお客様に沢山来ていただいても、魚が釣れなければ逆に不満が残ってしまい、再度来てみたいという気持ちも薄れてしまうだろう。また、「へら専科」「月刊へら」「へら鮒」などの雑誌社やつり新聞の取材の方々にも数多く来ていただいていた。釣果が芳しくなければ、あまり良い記事も書いていただけないだろうと危惧されていた。

しかし、そのような不安を吹き飛ばすかのように、桟橋のあちこちでは頻繁に竿が上がっていた。全体的に、よく釣れたのだ(どれほどの釣果があったのかは、残念ながらわからない。当時は自動計量器が設備されていなかったので、具体的な記録が残されていない)。

とても安堵した結果となったが、この要因としては、 −後の反省会でも話題になったが− すべての魚が新べらだったため釣られることへの警戒心が薄かったこと、型が二枚一キロ位が平均で釣られやすかったこと、そして、釣り座の間隔を二、四メートルと広くしたこと(これは、特に故藤田東水さんが言われたことである)などが、より釣りやすい条件を作ったのでは、と考えられた。

 

実は、このような混乱の中でも何とか大過なく初日を終わらせることができたのは、ひとえに、二十名にも及ぶであろう善意の方々の献身的な加勢があったからである。主に東水クラブやナインクラブの関係の皆様方で、早朝の駐車場案内から終了時の清掃まで、本当に快く、一生懸命に手伝って下さった。釣り堀経営初心者が始めた事業である。実際の釣り堀事情に精通し、手際を心得た方々のご助力がなかったなら、お客様である釣り人の皆様に違和感を与えるようなことをしでかしてしまいかねず、このようにオープンを成功させることなどできなかったことは明らかである。このことは、現在でも感謝に堪えない。

こうして、多少の混乱の中、「つり処 椎の木湖」は、まずまず順調に船出のレールを滑り出した。

そう、この日のことだけに限れば、順風満帆のようである。しかし、つかの間の安堵感の次に待ち受けていたのは、「ナポレオンに対する冬将軍」ならぬ、冬の釣り堀の試練だったのだ。

(メルマガ椎の木湖2002年6月号原文掲載)

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