椎の木湖とともに   大山 修一
 

第三話 「つり処椎の木湖」誕生に向けて

「つり処椎の木湖」−立派な命名がなされ、洒落たロゴも決まった。図面上の想像の世界でしかなかった釣り場やクラブハウスの建設も、ひとまずは計画通り順調に進み、日を追うごとに現実味を帯びるようになっていった。椎の木湖が、その誕生に向けて人知れず着々とその姿を作り出そうとしていた。

ところが、宣伝らしきものはまだ全くしていなかったものの、へら釣り愛好者の探求心と興味の程は私たちの予想をはるかに超えるものであった。大型釣堀の新規建設ということで、その世界では既にすっかり噂になっていたようだ。そのためもあってか、近隣から見学にいらっしゃる方々も日に日に多くなり、そういう方々のご期待に丁寧に対応していこうとしていく中で、私の中で芽生え始めていた責任感のようなものが、少しずつ育っていっているような気がしていった。

 

そんなある日、あの藤田東水さん(故人)が見学にいらっしゃった。皆様ご存知の通り、へら鮒釣りの世界では大変に有名な方であった。東水さんと色々お話し、うかがううちに、是非ともアドバイスいただきたい点が多々あることに気付かされた。椎の木湖を少しでも良い釣り場にするためにと、祈る思いでご協力をお願いした。

東水さんからは、経験豊富な優れた釣り人ならではの、重要なご指摘をいくつもいただくことができた。幸い、それらの一つ一つは、桟橋作りや実務に確実に取り入れられていくことになった。なかでも、桟橋の配置や座席間隔などに関する大変貴重なご助言は、現在でも椎の木湖独特の特長として挙げられることにつながっているのではないかと思う。また、ご人望の厚い東水さん自らの呼びかけもあり、様々な方々が、オープン前からのあれこれにボランティアでお力を貸して下さった。稲村さんご兄弟、高橋さん、杉山さんなど、お名前をあげきれない程の多くの方々に、実に、私たちの考えが全く及ばないような所までも親身になって助けていただいた。

このように、色々な方々のお智恵やご協力をありがたく拝借しながら、また私たちも試行錯誤を重ね続けながら、椎の木湖は徐々に完成に近づいていった。その後十年を経た今になって振り返ってみると、たまたまのマグレだったのかも知れないが、私たちが素人なりに下したちょっとした判断にも、驚くほど良い結果に結びつくものがあったことに気づき胸を撫で下ろす。 

それは、この還流する調整池を利用したこと、そして桟橋の材質に木を選んだことである。

調整池は、もともと隣接のゴルフ練習場で使用していたものを利用したのだから、偶然に過ぎない。しかし、木の桟橋は、釣り人にとても優しい環境を提供したという点では、大ヒットだったのではないかと思う。

外見からでは解りにくいことかもしれないが、この木の桟橋には実に多くのノウハウが詰め込まれている。木は確かに、夏涼しく、冬暖かく、釣り人にとっては快適な材質である。しかし、桟橋は水の上に浮いていながら、大勢の釣り人が重い荷物を持って歩いても安定感のあるものでなくてはならない。その上、四本の桟橋と三本の通路が四百十六席満席になった時の人間と道具・荷物の重量をしっかりと受け止め、充分に安全でなければならない。台風などの強風や突風にあおられたり、桟橋間に無理が生じてねじれることなども絶対にあってはならない。重さや力に屈しない強度と、力を効率よく逃す柔軟性と、まさに剛柔バランスよく備わっていなければならない造作なのだ。

 

そんな風にうまく工夫されて組み立てられたはずの桟橋だが、木は生き物であり繊細である。我々人間と似たようなものである。どんなに丈夫でも、また、どんなにうまくストレスを逃したとしても、毎日毎日、繰り返し与えられるストレスのすべてを完全に解消しきることなど、到底不可能な話である。一日一日の変化は、目に見えないほどのほんの小さいものかも知れない。でも、解消し切れずに少しずつ少しずつ蓄積されていったストレスは、放っておくと、想像も及ばないほどの大きな変化を引き起こしてしまう危険性をはらんでいる。たとえ、ストレスの影響が部分的であったとしても、その影響は、周りの正常な所にまで波及していってしまうかもしれない。

そんな望ましくない事態が起きる前に、ストレスの蓄積し始めた部分を上手に解放してあげることが肝要である。十年経った現在でも、この木の桟橋の補修には毎年多大な尽力が払われ、安定した心地よい桟橋が保たれている。釣り場の名前「椎の木湖」にも、たまたま木という文字が入っている。椎の木湖では、それが与えてくれる柔らかなぬくもりに感謝の気持ちを込めながら、この繊細な木と上手に付き合っていこうとしている。

 

肌にまとわりつくようなじめじめした熱風が、肌を冷やしてさっと通り過ぎていく爽やかな涼風に変わり始めた頃、椎の木湖では一日でも早いオープンを目指し準備に余念がなかった。カレンダーとにらめっこする毎日を過ごしつつ、一つ一つ問題をクリアしながら全力を傾けて準備が進められていったが、どうしても釣りシーズン中のオープンにこぎつけることは無理になってきた。果たして、年内には間に合うだろうか?しかし、今更じたばたしても仕方ない。ようやく目処がついてきたのは、秋色濃く枯葉の舞う頃。胸いっぱいの願いを込めながら、主だった釣会へのオープン招待状の送付がやっと始まった。

そして、忘れもしない、年の瀬も押し迫った平成三年十二月二十一日。慣れない環境で戸惑っているであろう五十トンものへら鮒たちを危ぶみながら、ついに椎の木湖は記念すべきオープンの日を迎えた。沢山の方々の期待と協力に見守られる中で、「つり処椎の木湖」が可愛らしい産声を恥ずかしげにあげたのである。

この頃の私は、実に、神経性胃炎と頭髪の抜け毛に常に悩まされていたものだった。 

(メルマガ椎の木湖2002年5月号原文掲載)

椎の木湖文庫