椎の木湖とともに   大山 修一
 

第二話 私のへら鮒釣り

私が椎の木湖で釣りしている姿を見かけた方もいらっしゃると思う。本当にたまにではあるが、無性にへら鮒釣りをやりたくなるときがある。

...実は、子どもの時分より釣りが好きだったのである。

営団に勤めていた父が無類の釣り好きだった影響だろう、私も幼い頃から自然と釣りに慣れ親しんでいた。父はへら鮒釣りを好んでいたが、幼い私は、勿論、雑魚釣り専門であった。

それでも、大人の世界に強い興味を抱き始めた中学生頃になると、見様見真似でいつの間にかへら鮒釣りを始めていた。無論、へら鮒釣りの奥の深さなどには全くの無頓着で、ただただ銀鱗の美しい魚体を無心に追いかけていたばかりだったが。

そのうちに、父より沢山釣れる日があったりするほどの腕前になったように記憶している。そのまま、へら鮒釣りを生涯の趣味として続けていたならば、もしかしたら、今ごろ私も椎の木湖で気楽に釣り糸を垂れていたのかもしれない。気の合う仲間達と一緒に、今とはまったく逆の立場で。

 

しかし、興味の幅が更に広がる情緒多感な高校生時代、私はゴルフという魅惑的なスポーツに出会ってしまった。ゴルフの、釣りとは比べものにならないほどの刺激的な魅力に引き込まれていく一方で、少年の時分より当たり前のように慣れ親しんできた釣りというスポーツの魅力がかすんでいき、それは瞬く間に過去の興味となってしまったのである。

「生涯の人に出会ったら、今まで付き合っていた相手はかすんでしまう」

人と人の、あるいは男と女の、そういう巡り合わせにもどこか似ているような気もする。急に、それまでの相手が何か変わってしまったわけではない。ただ、生涯を共にすべき相手ではなかったことに気づかされてしまうのである。新しい出会いによってそれを感じた時、既に無意識のうちに自分が変わってしまっているのかもしれない。少なくとも、物事への感じ方が。

私にとって、ゴルフとの出会いはそれ程までに鮮烈であった。

 

 

...そのような訳で、私にも幾ばくかのへら鮒釣りの経験があったのである。

とは言え、十年前に事業としてへら鮒の釣堀を考え始めたとき、子ども時代の遊びの一つに過ぎないへら鮒釣りの経験は、自由奔放な頃への郷愁を誘うこと以外、何の貢献もしてくれなかった。ましてや、ゴルフ三昧で社会勉強不足だった身には事業を起こすことなどたやすい訳は無く、一つ一つ物事を具体化させていくべき段階で、一つ一つ難しい問題に対峙させられていった。何をどのように進めたらよいのか、考えれば考えるほど困りはて、途方に暮れてしまっていた。

ここで、私の助けとなってくれた二人目の人物との出会いとなった。

その人の名は桑原認氏。私の良き兄貴分である飯ヶ谷氏の古くからの知人で、且つ仕事上では良き相談相手であった人だ。釣堀の経営という仕事は、私にとっては勿論、飯ヶ谷氏にとってもまったくの畑違いであった。そこで、当時、建設会社を巧みに経営していらした桑原氏を頼ったのである。

経験豊かな桑原氏の対応は、驚くほど早くてきぱきとしていた。いつの間にかあちこちから数々の情報が集められ、私たちの釣堀の概要がおぼろげながらその姿を現すようになっていった。さらに具体的に話を進めていく中で、なんとか事業としてやっていけるのではと言う結論に達した頃には、無知から来る不安によって張り詰めていた緊張と疲労感が、安堵を伴う少し心地よいような疲労感に変わっていた。

といっても、新たな釣り堀事業を一人きりで立ち上げて運営していけるという自信は、当時の私にはかけらもなかった。無責任かもしれないが、無知な私が新しいことを始めるためには、恥も外聞も恐れずに優れた人にただただ素直に頼るしか術がなかった。話が具体化していく過程で、立ち上げから運営まで、桑原氏に全面的な協力をお願いした。

こうして釣堀の建設は始められることとなり、桑原社長の下で、実践を通じて経営を学ばせてもらうこととなった。

そんなある日、桑原氏の知り合いのデザイナーの方がおいでになり、池のまわりに防風林として植えられた「椎の木」に目を向けるや、何かひらめいたようであった。その方によるデザインにより、あのロゴ字体の「つり処 椎の木湖」という名前が誕生することになった。

(メルマガ椎の木湖2002年4月号原文掲載)

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