椎の木湖とともに   大山 修一
 

第一 話 私と椎の木湖のはじまり


私は、生まれも育ちも埼玉県鴻巣市。地元の公立小学校・中学校を経て、上尾高校へと進んだ。高校生の時に一度父親にゴルフに連れて行ってもらい、すっかりゴルフの虜になってしまった。高校卒業後の進路も勿論ゴルフしか考えられなかった。しかし、あまり勉学に熱心ではなかったので、ゴルフ部で有名な大学の受験には片っ端から失敗してしまった。

それでもあきらめきれず、家の近くのゴルフ練習場でアルバイトをしながら練習に打ち込んでいた。

その内に、ある人のつてで、群馬県の伊香保国際GCに研修生として雇ってもらうことができた。この時、二十歳になったばかり。世間知らずの私は、無謀にもプロゴルファーを目指していた。

・・・しかし、夢ははかなく破れ、叶わなかった。

自分のゴルフの限界を思い知らされた。一般の人よりは光ったものがあったかも知れないが、それはプロになれるような、ましてやプロとして活躍できるような、さんぜんたる輝きではなかったのだ。

三十歳を前にして、私は第二の人生の選択を迫られていた。しかし、私には選択はなかった。世間とは隔離された環境の中、ゴルフだけの毎日で最も活発かつ貴重な二十代を送った者にやれる仕事は、とっても少なく思えた。

それでも、私が唯一得意なのはゴルフなのだから、やはりゴルフ関連の仕事しか考えられなかった。

この時私を救ってくれたのは、ある幸運な出会いであった。

一人っ子である私が、現在では兄とも慕う飯ヶ谷忠三氏との出会いである。当時、飯ヶ谷氏はやはり研修生を経て、ゴルフ練習場を経営しておられた。(それが、現在私が引き継いでやっている隣接の水上ゴルフセンターである。) 

その後、飯ヶ谷氏のビジネスが拡大したため、私がその経営を譲られたのだ。しかし、この頃までには、日本経済の右肩上がりの成長に後押しされてゴルフブームが起こり、近辺には設備の優れたゴルフ練習場がいくつもできてきていた。いくら社会勉強の浅い私にも、このままでは経営が先細りなのは明らかだった。なにか、調整池という環境を活かして行える事業を考えつかなければならなかった。

この時に、飯ヶ谷氏のアドバイスもあって辿り着いたのが、「へら鮒の釣堀」である。

私は、釣りに関してはまったくの素人だった。うまくいくかどうか、自信は全くなかった。だが、やらなくても駄目なときは来てしまう。それなら前に進むしかない。腹をくくった。

こうして、つり処椎の木湖は誕生することとなった。

1992年、ちょうど10年前のことである。

(メルマガ椎の木湖2002年3月号原文掲載)

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